Consider the following three propositions: (R) Artworks necessarily have aesthetic properties that are relevant to their appreciation as artworks. (S) Aesthetic properties necessarily depend, at least in part, on properties perceived by means of the five senses. (X) There exist artworks that need not be perceived by means of the five senses to be appreciated as artworks. The independent plausibility and apparent joint inconsistency of these three propositions give rise to what I refer to as ‘the problem of non‐perceptual art’. Assuming that the propositions are independently plausible and jointly inconsistent, there will be three ways of solving the problem: you may affirm (R) and (S) while denying (X); you may affirm (S) and (X) while denying (R); or you may affirm (R) and (X) while denying (S). The first of these, once the orthodox solution, has been displaced in recent years by the second. The third has never really been defended. I defend it here. If successful, my defence will have shown that there is reason to deny the existence of non‐aesthetic art and no reason to believe that art is not essentially aesthetic.
1 イントロダクション
- 20世紀の芸術哲学にとって最も重要な発展といえば、美的でない芸術の台頭。
- しかし、non-aesthetic artの存在を否定する余地がある!
泉
L.H.O.O.Q.
消されたデ・クーニング
- 美的でない芸術の例?:デュシャンの《泉》や《L.H.O.O.Q.》、ラウシェンバーグの《消されたデ・クーニング》
- どれも、五感で知覚せずとも鑑賞できる?直接見なくても記述を読めばOK?
- だから美的じゃない芸術がある!というのは論点先取なので、まずは知覚的じゃない芸術があるとだけ言っておく。
<aside>
📌 知覚的じゃない芸術のパラドクス (364)
(R) 芸術作品には必ず、鑑賞に関与的な美的性質がある。
(S) 美的性質は必ず、知覚的性質にいくらか依存している。
(X) 知覚されることなく鑑賞されうる芸術作品がある。
(R) Artworks necessarily have aesthetic properties that are relevant to their
appreciation as artworks.
(S) Aesthetic properties necessarily depend, at least in part, on properties
perceived by means of the five senses.
(X) There exist artworks that need not be perceived by means of the five senses
to be appreciated as artworks.
</aside>
- 「第一の解決」:(S)(R)を擁護しつつ(X)を否定する。Clement GreenbergやMonroe Beardsleyなど。〔知覚的=美的でない”アート”は芸術じゃない、という路線。芸術作品の鑑賞には知覚が必須派〕
- 「第二の解決」:(S)(X)を擁護しつつ(R)を否定する。Arthur Danto, Timothy Binkley, Noël Carrollなど。〔芸術はまったく美的でなくてもいい、という路線。芸術鑑賞に美的性質が関与的じゃなくてもええじゃないか派〕
- 「第三の解決」:(R)(X)を擁護しつつ(S)を否定する。Arthur Dantoがちょっとだけ示唆していたりいなかったり。この論文で擁護する。〔芸術はかならず美的だが、美的≠知覚的なので、知覚的じゃない芸術があっても大丈夫(美的じゃない芸術があるという話にはならない)という路線。〕
- まず、議論史において、第一の解決から第二の解決に移った理由を再考する。次に、第二の解決から第三の解決に向かうべき理由を提示する。
2 第一から第二へ
- (X)を否定する論者は、(1)知覚的じゃない”芸術”は芸術じゃない!と言うか、(2)”非知覚的”芸術も実は知覚的だ!と言うかのいずれか。
- Beardsleyは(1)の路線。知覚的じゃない”芸術”なんていうのは非常識だとする。デュシャンが「芸術作品」に新たな意味を付け加えたわけではないとみなす。
- しかし、〈デュシャンは、レディメイドを芸術作品として受容する伝統を創始したのではない〉とするBeardsleyは明らかに間違っていた。
- 《泉》が芸術として受け入れられているのは明らかなので、立証責任は第一の解決を選ぶ論者にある。
- 〔ここは、間違っていたというよりも、歴史的に負けたという話な気がする。〕
- Carroll (1999):明らかに美的じゃない芸術があるので、定義によって退けるのは論点先取。
- Beardsleyの定義は記述的ではなく、立法的であり、彼こそ「芸術作品」の意味合いを規定的にestablishしようとしている。
- Beardsleyサイドからの応答?:レディメイドには、それ以前の芸術作品と同じ芸術を名乗るだけの連続性がない?
- Carroll (1986):デュシャン以前のアートも知覚的満足を与えるものばかりではなかった。美術史上の重要性を査定したり、解釈する活動は、いつだって芸術との相互作用の中心にあった。
- Carroll曰く、芸術作品は、美的相互作用を促進しないとしても、解釈的相互作用を促進する。解釈的相互作用(美術史上の意義を特定する、などを含む)は、美的反応と同様に、芸術に対する適切かつ特徴的な反応である。
- したがって、デュシャンの作品は美的経験を与えないにしても、プロパーな芸術的反応を促すので、芸術作品である。
- 〔ここではShelleyのコメントはないが、こういう解釈的相互作用も「美的」のもとに収められるのかは見どころだな〕
- Dickie (1974)は、(2)”非知覚的”芸術も知覚的だ!ということで(X)を否定する路線を示している。(本人は擁護していないが)
- 一方、Danto曰く、《泉》にはふつうの小便器にはない、daring, impudent, irreverent, witty, and cleverといった性質がある。デュシャンを駆り立てたのも、ギャラリーに運び込まれた便器が与える美的感覚のはず?