Irene Martínez Marín, The Aesthetic Enkratic Principle - PhilPapers
$\color{#FFF}\colorbox{#000}{\textsf{Abstract}}$
合理性には構造的合理性と呼ばれる次元があり、それによれば合理的であるということの典型例とは、アクラシアでないことである。哲学者の中には、美学は合理性の範疇に含まれると主張する者もいるが、特定の態度の組み合わせを禁止する非アクラシア制約は、この領域ではまだ開発されていない。本稿は、そのような要件がもっともらしいかどうか、もしそうだとして、それは美的合理性の実際の要件なのかどうかという問題に関心を向ける。最終的に本稿は、美学は主体の心的状態の首尾一貫性(美的なケースでは、判断されるものと美的に好まれるものの間の一貫性)を必要とするという点で、他の領域と変わらないという見解を擁護する。
$\color{#FFF}\colorbox{#000}{\textsf{Table of Contents}}$
1 美的合理性の構造 The Structure of Aesthetic Rationality
- 構造的合理性[structural rationality]:合理的であることの典型例とは、心的に一貫していて、アクラシアでないということ。
- 注1:反応する理由があるなら反応する、という**実質的合理性[substantive rationality]**と対比している。
- 特定の態度の組み合わせを禁止するような原則や要件がある。違反したら、非合理的になる。
- 〔そういえば、こういう文脈でのattitude(信念や情動や意図などいろいろ入ってる)は、mental stateと同じ?痛みなどはmental stateだけどattitudeじゃない?〕
- 美学も、合理性の範疇にあると言われがちだが(Kivy, 1975; Gorodeisky and Marcus, 2018)、アクラシアじゃダメという話はあまりされていない。
<aside>
❓ 問い:(1)美学でもアクラシアを禁じる合理性要件があるのか、(2)それは美的合理性の要件なのか。
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- 美的アクラシア:同一のアイテムに対するある主体の美的判断と美的好みが一致していない。
- 美的判断:アイテムのオーバーオールな美的利点や欠点のあるなしを述べる、価値付与判断。(「xは美的に価値がある[worthy]」「xは美しい」など)
- 美的好み:経験対象の特徴への情動的志向を含んだ態度状態。xが美的に価値あるかどうか、という問いに絡む。趣味の表明なので、美的個性を形成している(Melchionne, 2010)。
- 注意点ふたつ:
- アクラシアがあるためには、まず主体が自律的に美的判断をしている必要がある。
- そもそも主体が自らの鑑賞能力を発揮して価値判断していないようなケースは除外。
- 注4:判断が真であるために自律的でなければならないという要請ではなく、ちゃんと美的判断であるために自律的でなければならないという要請。
- 〔なんでこの補足があるのか、ここだけだといまいち分からない。証言ベースで良いと判断しつつ個人的に嫌うのは無理もない、という直観から?〕
- 美的好みは、対象の美的特徴への反応でなければならない。
- 美的でない(道徳的、政治的、個人的)考慮からの好むようなケースは除外。
- 〔これもたぶん、美的に良い作品だと判断しつつ、道徳的・政治的・個人的に嫌いだ、といったケースを許容するための補足。〕
- いろんな領域でのアクラシア現象:
- Aはポロック展に来た。Aはいくつかの作品について、美的に価値があると判断する。しかし、Aはそれらの絵画が好きではない。
- Bは映画『マイ・インターン』を見てきた後で、味気がなくひどい配役だと判断する。しかし、Bはその映画が好きである。
- Cは図書館にこもって試験勉強をしなければと思っている。しかし、友人がCをパーティーに誘うとCは招待に応じ、図書館を去ることにしてしまった。
- Dは手帳を見て、午後2時に会議があることを確認した。Aは、確かにそうだと同僚に確認する。それでもDは、自分が時間を間違えているのではないかという疑念を拭えない。
Jackson Pollock, Convergence, 1952.
Intern
Intern
- どのケースでも、態度的心的状態の間に不一致やミスマッチがある。
- 美的なケース(1)(2)では、良いと判断しつつ嫌ったり、悪いと判断しつつ好むことにはなんの問題もないと言われがち。〔だが、著者は問題があるというつもり。〕
- これは、実践的領域(3)や理論的領域(4)だと、一貫性の要件に違反していておかしいと言われるのと対照的。
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📌 実践的自制原理:人は、φすべきであると信じているからにはφしようと意図することを、合理性から要請される。
(Practical EP): One is rationally required to intend to φ whenever one believes that one ought to φ (Broome, 2013b).
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📌 理論的自制原理:人は、持っている証拠に照らして支持されないと信じている事柄を、信じないよう、合理性から要請される。
(Theoretical EP): One is rationally required not to believe something that one believes to be unsupported by the evidence one possesses (Horowitz, 2014).
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- 構造的要請を守るには、一階の態度を修正するか高階の態度を修正するかの、どちらかを選ぶべき?
- 例:Cは、図書館にとどまることにするか、さもなければ図書館にこもるべきだという考えを取り下げるべき。
- 美的なケースも同様?:Aは、ポロック絵画を好きになるか、さもなければ価値があるという判断を取り下げるべき。Bは、映画を好むことをやめるか、さもなければ価値があると判断するべき。
- 懸念1:もっとも、美的なアクラシアはふつうのアクラシアと違って、一階の態度と高階の態度が対立しているのではない。
- 同一の対象に向けられた判断と好みという、ふたつの一階の態度が対立している。
- なので、美的領域にそのまま構造的合理性の原理を類比することはできない?
- 懸念2:美的領域では、合理性から評価される対象は主体の**鑑賞[appreciation]**である。
- 鑑賞は、なにを信じるべきか、なにを行うべきかの判断には還元できない。(Gorodeisky and Marcus, 2018)
- 美学が、信じたり行為することではなく、鑑賞することに絡む領域だからこそ、美的アクラシアがあまり取り沙汰されてこなかったのかもしれない。
- それでも、適切な鑑賞を妨げるものとしての美的アクラシアについて、似たような議論ができそう。
- 〔懸念1, 2があるけど、とにかく鑑賞の合理性に絡む美的アクラシアっぽい現象があるので、それを論じていくよ、という流れ。〕
- 〈美学には、アクラシアじゃダメという要請なんてない〉という見解の背後には、美的鑑賞をめぐるふたつの支配的な見解がある:
- 情動主義[affectivist view]:美的価値は、情動を通じて明らかにされるものなので、判断されるものと好むものが分離することはありえない。
- 〔そもそも、好きだという情動を抱くなかでこそ良いものだと判断できるので、好きだけど悪い、嫌いだけど良いという判断をすることはない、という立場。〕
- 知覚主義[perceptualist view]:アクラシアは生じうるが、適切な美的従事を妨げることはない。というのも、適切な美的鑑賞を構成するのは、好き嫌いを抜きにした判断だけだから。
- 〔美的従事・鑑賞としては判断のほうだけが肝心なので、好みと判断の不一致があるからといって、鑑賞が不適切・非合理になるわけではない、という立場。〕
- 〔わかりにくいラベルだが、①鑑賞=美的判断はただ知覚的になされるんですよというシブリー的な立場と、②鑑賞=美的判断はただ考えてなされるんですよというキャロル的な立場が両方カバーされている。どちらも、鑑賞と情動を切り離す。〕
- 予告:
- 2節:美的アクラシアの概念を発展させ、美学における自制原理を提案する。
- 3節:美的自制原理に対する、情動主義者と知覚主義者からの挑戦をまとめる。どちらも美的アクラシアを退けようとしているが間違っている。鑑賞の根底にある、知覚-情動関係について誤解している。
- 4節:美的自制原理が、美的合理性から真に要請されることを示す。ある対象に対する美的判断と美的好みの間にズレが生じると、美的従事がうまくいかなくなる。いくつか反論にも応答。
- 5節:結論。