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Lord (2019)のエンリッチメント説:
- 低次内容の知覚と、それが基礎づける高次の美的内容の知覚は、正当化の構造に対応している。
- 信念から推論するような合理性とは違って、知覚ならではの合理性は主体がその正当化関係に気づいていなくてもいい。
- 例:《オランピア》は強烈だと信じる主体は、強烈さとどの低次性質の間に正当化関係があるのか分かってなくてもかまわない。
- 低次特徴についての信念から推論して強烈だと結論するのではないし、関連する低次特徴についての信念はなくてもいい。低次性質を知覚していることによって、その低次性質があると信じることが事前に正当化[ex-ante justified]されていればOK。
- 〔細い曲線を知覚しており、細い曲線があると信じることが正当化されているのだから、優美さを見てとり、優美だと信じることも正当化されている、みたいなこと。〕

Édouard Manet, Olympia, 1863.
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したがって、美的知覚が依存する低次特徴たちを指摘することが、批評家の仕事となる。(知覚的証明)
- 〔「優美さをもたらしているのはこの細い曲線ですよ」みたいな指摘をするのが批評家の仕事。grounding factsの指摘。〕
- 〔総じてLordの立場は、美的性質-非美的性質のgrounding関係をそのまま合理的正当化関係として理解しちゃおう、という提案っぽい。〕
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懸念:信念の合理的説明にはTaking Conditionがある。(Boghossian 2014; Longino 1978)
- The Taking Condition:推論には必然的に、前提は結論をサポートするものだと思考者がみなしていること、その事実ゆえにこそその結論を引き出すことが含まれる。
- 例:執事にアリバイがあることと執事が無実であることの間に合理的関係があると把握していなければならないし、この関係ゆえに執事は無実だと把握していなければならない。
- 〔いい訳が思いつかなかったが、前提ないし理由を踏まえて[take]、ということかな。〕
- 〔合理的に正当化された推論的判断であるためには、なにを理由になにを結論しているのか、セットで把握していなければならない。なにが理由かはっきりしないが、とにかくある主張を直観するのは、合理的じゃない。〕
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Lordは美的合理性に関してこれを否定していることになる。
- 高次特徴をappreciateする上で、その基礎となっている低次性質がどれなのか把握できていなくてもいい。
- 顔の表情が「《オランピア》は強烈だ」を基礎づけるとき、前者の知覚が後者を事前に正当化するので、前者について事後に正当化された信念を持つ必要はない。
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懸念:Lordが取り上げる美的知覚は、真正な合理性が満たすべきTaking Conditionに違反している。
- 低次特徴の知覚と高次の美的知覚の間にはたしかにLordが述べるような関係性があるのだろうが、それはrationalな結びつきとは言えない。
- 批評家は低次特徴を指摘することで、合理的結びつきを開示しているとも言えない。
- 〔Lordの主張はまさに「taking conditionを満たすことは合理性の必要条件じゃない」というものなので、満たしてないのでrationalとは言えない、という反論はどうかなと思う。どっちも論点先取な感じするが。〕
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想定応答:「《オランピア》は強烈だ」という美的判断は、Taking Conditionが示唆するように、関連する低次特徴の知覚を踏まえていると認めても良い。エンリッチメント説は、「《オランピア》は強烈だ」という美的知覚では、低次特徴の知覚が必要ない(認識論的には依存しているが)、と主張しているに過ぎない。
- 〔判断と知覚を区別して、前者にはgrounding factsの把握が必要だが、後者には必要ないとする線。後者でも、信念が必要ないというのは分かるが、知覚すら必要ないというのがどういうことか分からない。優美さを見て取るのに細い曲線すら見て取る必要はないということ?〕
- しかしこれでは、批評的判断における美的正当化、基礎づけ[basing]についての説明を諦めたも同然。
- 知覚そのものに推論と同様の合理的関係があるというならば、(以下で見る)Hopkins説と同じ問題を抱えることになる。〔この一文、Hopkins説を導入する前には意味不明だし、余分だろう。〕
- 美的判断には非知覚的でTakingに似た反応性があると言って粘るのもしんどい(しかもDirectnessと両立しなければならない)。
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あるいは、美的理由にこういった類の(Taking Conditionを満たすような)合理的反応性を求めるのは厳しすぎる、と応答するかもしれない。
- こういった合理的反応性を求めない認識論的依存関係はたくさんあるし、美的理由もそのひとつ?
- 例:私が「私はずっと地球で暮らしてきた」と信じる正当化は、「私は火星に置かれた水槽の脳ではない」ことに依存しているが、前者の信念は後者に基づいている[based on]わけではない。
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この応答はうまくいかない。一般的に、推論の前提と結論だけでなく、感情の対象と感情そのものの間にも、合理的反応性の結びつきが求められる。
- 〔なんでここで「感情の合理性もTaking Conditionを満たす」という話をすることが再反論になるのか、流れが分からない。あと、それが再反論になるのも、「美的判断は感情的判断の一種だ」という著者ら自身の主張ありきなのでは?〕
- 例1:母親に対して怒っているカイト。寝不足であることは怒っていることを説明するが、この説明はカイト自身が「寝不足ゆえに怒っているのだ」と把握することとは独立になされうる。Taking Conditionに従えば、寝不足は怒りの合理的説明の一部ではない。
- 例2:母親にトーストを焦がされて怒っているカイトは、トースト焦がしが自分の怒りの理由だと把握し、それを理由に怒っている、つまり理由に反応している。怒りは、トースト焦がしに正当化されており、その限りでトースト焦がしはカイトの怒りを合理的に説明する。事後的に見て、「トーストを焦がされたから怒るのももっともだ」というのとは違う。
- 〔単なる理由と原因の区別。例1はtaking conditionを満たしていない、例2は満たしている。〕
- 〔余談だが、GorodeiskyにはCaitoというお子さんがいるみたい。〕