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キーとなるのは、なにをもって美的行為[aesthetic act]とするか。
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第1章で紹介した美的行為の例は、一見するとなにも共通項がなさそう。「模範的な美的人物」として紹介しつつ、模範としてぱっと思いつくような人たちではない。
- それぞれが目標と実践的な問題を持って、いろんなことをしている。
- ロペスの考えでは、むしろ問題なのは、私たちが美的行為を**鑑賞[appreciation]**と同一視しがちであること。
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同一視している人たち。
- C. I. Lewis (1946: 437: 454):美的価値は行為の財[goods]ではない。
- Mothersill (1984: 97):美的価値の真なる判断として、どんな行為が求められるのかはよくわからない。
- Wollheim (1991: 38):美的判断は行為に対してなんの帰結ももたらさない。
- Goldman (1995: 8, 151):芸術は、現実世界での実践的事柄から私たちを完全に切り離してくれる。
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美的行為の「鑑賞モデル」(Moore 1903; Miller 1998: 38–40; Archer 2013: 71; cf. King forthcoming)
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📌 あらゆる美的行為は、美的鑑賞の行為である。
all aesthetic acts are acts of aesthetic appreciation.
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- このモデルはまず、鑑賞を行為とみなしている。
- なので、Lewisらは話盛ってる:鑑賞という行為はふつうにやることになる。
- ポイントは、鑑賞行為に美的エージェンシーを独占させること。
- 鑑賞モデルのもとでは、リフォード、アボット、ウィンフリー、サム、ハンナらが模範的な美的人物に挙げられるのは奇妙だし、美的エージェントは色んな活動に専門化している、という主張も疑われる。
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うまくいかない代替案:美的活動とは、美的に気になるアイテムに携わる[operates on an item of aesthetic concern]行為のこと。
- 本棚を整理するジャック、作品をチェックする警備員のペグ、読書するウィンフリーなどは、どれも美的に気になるアイテムに携わっているので、美的行為である?
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しかし、ジャックとペグの行為からは、美的価値についてなにも学べない。
- ウィンフリーからは学べる:小説の美的価値に対する彼女の見解は、彼女がやることに違いをもたらしているから。
- 美的活動の理論は、美的価値の査定によって活動をガイドされるようなエージェントを取り上げることが必要。
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美的評価とは、あるアイテムに美的価値を帰属する、occurrentないしdispositionalな心的状態である。
- 〔補足:occurrent/dispositionalの対比は、いま頭に思い浮かべている信念と、記憶として持っている信念の対比とかに使われるやつ。後者は傾向的と訳されがちだが、前者にも定訳ある?〕
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📌 評価[EVALUATION]:ある状態は美的評価である=その状態は、なんらかのアイテムがなんらかの美的価値を持つことの心的表象である。
EVALUATION: a state is an aesthetic evaluation = the state is a mental representation of some item as having some aesthetic value.
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- 美的評価には、信念に似た判断もあれば、知覚的なもの、情動的なものもある。(Millar 2000; Stokes 2014; Lopes 2014a: ch.9; Lopes 2016b; Tappolet 2016; Alvarez and Ridley 2017; Stokes 2018)
- 私たちは、必ずしも言語化できないまま、日々膨大な美的評価を行っている。
- 例:バターでソテーしたニンジンに、炒ったクミンシードを混ぜることのなにがそんなに効果的なのか、多くの人はよく理解しつつも言葉に悩む。
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これを踏まえ、あるアイテムへの美的評価に正しい仕方で敏感でありつつ、そのアイテムに携わることを、美的行為とみなせる。
- その行為をするのは、その美的価値を帰属しているから。他の条件が等しければ、帰属する価値が異なれば、する行為も異なる。
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📌 行為[ACT]:Aのするφは、美的行為である=Aのするφは、Aによるxの美的評価の内容に反実仮想的に依存し、Aのφはxに携わることである。
ACT: A’s φing is an aesthetic act = A’s φing counterfactually depends on the content of A’s aesthetic evaluation of x, where A’s φing operates on x.
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- 〔補足:「AがBに反実仮想的に依存している」とは、Bが変化すれば必然的にAも変化せざるを得ないような関係性になっているということ。この場合は、評価が違えば必然的に行為も違うだろう、ということ〕
- これは、行為とはなにかではなく、行為のうち「美的」な行為はどれかに答えるもの。
- 〔いったんまとめ:美的価値を心的に表象するのが美的評価。美的評価次第で左右される行為が美的行為〕
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例:ルームメイトが壁にドラマのポスターを貼っていたとして、彼女がポスターの美的価値を度外視に貼っていたとしたら非美的行為だし、美的価値(atrocious, stunning, lively, deadeningなど)によって行為を左右されつつ貼っていたとしたら美的行為だと言える。
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ACTですらも、鑑賞モデルに陥る?
- 美的鑑賞とはまさに美的評価のことだ、と同一視するわけにはいかない。鑑賞には評価(=美的価値の心的表象)以上のなにかがある。
- 鑑賞の例:ギャラリーでプッサンを見るニックは、絵画というメディウム、ジャンル、歴史的背景に関する知識を駆使し、意味を探し、競合する解釈を試し、感情的に反応する。
- あらゆる美的行為が鑑賞を含むとは限らないが、どの行為も美的評価を含む。〔なので、大事なのは鑑賞ではなく評価〕
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哲学者は「美的判断」「美的経験」の語で、ときに評価のことを、ときに鑑賞のことを意味してきた。
- ちゃんと規定して、こういう曖昧さを排除しよう。
- 美的評価とは、あるアイテムがある美的価値を持つことの心的表象(判断でも経験でも感じでもよい)。
- 美的鑑賞とはある独特な美的行為であり、もっと詳しく述べる必要がある(第8章)。
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結局、アボット、ウィンフリー、サム、ハンナ、レフォードらの行為は美的行為なのか?
- 鑑賞モデルによれば:美的鑑賞に従事しているかどうかによる。
- ACTによれば:それぞれの行為が、それぞれの美的評価の内容に反実仮想的に依存しているかどうかによる。
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ACTのもとでは、鑑賞も美的行為のひとつ。
- 例:プッサンを鑑賞するニックは、絵画への美的評価の内容に反実仮想的に依存しつつそうしているので、美的行為をしている。
- 一方で、鑑賞モデルは不寛容であり、ACTが含めるようなものの多くを排除してしまう。
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ここで、不寛容である理由が、あらかじめ美的快楽主義にコミットしているから、というのではダメ。
- 〈美的行為は、美的評価の内容への敏感さだけでは説明できず、最終的に価値ある経験に訴えるべきだ〉という線ではうまくいかない。
- 美的行為は最終的に価値ある経験でなければならない、というのは美的快楽主義者がそう思っているだけなので、理由として持ち出すのは論点先取である。
- 美的快楽主義の側から独立した議論がない限り、ACTこそ中立的で共通の基盤としてみなされるべき。
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美的行為の理論を規定するのは、美的価値についてちゃんと学べるサンプルを集めるため。なので、美的価値への最大限包括的な関係において、なるべく広く美的活動をとるのが望ましい。
- なんでも美的行為!にはならない:美的価値の表象内容に敏感である、という但し書きによって、ジャックやペグのケースは弾ける。
- Steckerも、ACTであれば絵画を調査する化学者や、価値を度外視して絵画を文脈づけする美術史家も弾けると言っていた。
- ACTによって鑑賞モデルまで美的行為が絞られることはないし、ソースコードを収集するサムのようなケースが弾かれることもない。
- ゲームの鑑賞はそれはそれで特別かもしれないが、収集だって美的価値について教えてくれる。サムの行為から、美的価値がもたらす違いについて見ることができるから。
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Raz (2003: 38):美の実践を構成しうるような、特定の行為タイプは存在しない。
- 美的に実行されがちな行為タイプはいくつかある:鑑賞する、キュレーションする、展示する、レビューする、編集する、保存する、収集する、料理を盛りつける、恋愛する[appreciating, curating, exhibiting, reviewing, editing, conserving, collecting, plating dishes, and romancing]
- 美的に実行されがちでない行為タイプも、美的に実行できる:働く、祈る、抗議する、ハイキングする、購入する、哲学する[working, praying, protesting, hiking, buying, and philosophizing]